(potariに寄稿した記事です)
デザインを語らないデザイン書
『コ・デザイン』は、おしゃれな表紙からは想像もできないほど、筆者の熱い信念のこもった本だ。タイトルには「デザイン」とあるが、デザインの専門用語はほとんど登場しない。だれでも平易に読みすすめることができ、同時に深く考えさせられる良書なので、ぜひ多くの人に読んでもらいたい。
本書は、色彩や造形といったいわゆるデザインではなく、デザインと周辺の要素とのつながりをふくめた大きな活動を射程にいれている。多くの利害がからみあう社会の複雑で厄介な問題に対して、わたしたちはどのように取り組んだらよいのか。多くの現場に横たわっている問題に、当事者と専門家が「いっしょにデザインする」ことで対応するのが「コ・デザイン(Co-Design)」のコンセプトだ。Coは「ともに」や「協働して行う」を意味する接頭語だ。こうした「デザイナーや専門家といった限られた人々によってデザインするのではなくて、実際の利用者や利害関係者たちがプロジェクトに積極的にかかわっていく取り組みが世界中で活発になって」(p.88)いる。そのコンセプトを幅広い理論や豊富な事例とともにていねいに解説する本書は、しかしたんなる解説書にとどまらない。驚くことに、読んでいるうちに読者はみずからの生き方(生きるうえでの態度・姿勢)を問われてしまうのだ。
著者の上平崇仁は、専修大学ネットワーク情報学部の教授。一般大学でデザインの専門家として奮闘している尊敬する研究者のお一人だ。本書が目をくばっている領域ははばひろい。おもいつくだけでも、情報デザイン、ワークショップデザイン、ファシリテーション、組織づくり、人類学、民俗学、学習、経営などのキーワードが出てくる。いろいろな領域で活動している人が、それぞれ自身の活動とのつながりや気づきを得られるだろう。
民主主義の本
わたしは本書を「民主主義の本」、「シチズンシップについての本」だと受けとめた。意外に感じられるかもしれないが、読めば納得してもらえるはずだ。本書は、これからの社会のあり方を問い、読者に「シチズンシップ」の獲得をうながしている。ここで本文におそらく登場しない「シチズンシップ」という言葉をあえて持ちだしたのは理由がある。2019年に参加したSFPC集中ワークショップでの体験を思いだしたからだ。
このときのSFPCでは「Citizen Code of Conduct」が掲げられていた。「Code of Conduct」は日本ではよく「行動規範」と訳されている。イベント参加者の規範となる振る舞いを定め、差別やハラスメントを許容しないと謳う共同体のルールを示した文書だ。ただSFPCのそれは一風変わっている。タイトルには「Citizen」(市民)がついていて、さらに「Open [中略] Citizenship」という項目が立てられている。SFPC参加者有志がこの行動規範の日本語訳に取り組んだとき、Citizenshipの訳になやまされた。一般的に「市民権」や「公民権」と訳すようだが、しっくりこない。文脈からここでのシチズンシップとは、権利であるとともに「共同体の成員としての責任をもつ態度」をさしていると理解した。なぜこれほどまでにシチズンシップを重視しているのか。なぜなら、一人ひとりの態度や行動が集まることで、彼ら・彼女らが属する共同体や社会の姿がかたちづくられるからだ。SFPCの行動規範では、多様な人を受け入れること、フレンドリーに接すること、不平等を是正し権力の濫用を食い止めることなど、積極的な行動を促している。
本書『コ・デザイン』を読んでいると、SFPCの「シチズンシップ」が頭をよぎった。つまり本書が描いている社会と人びとのあり方を一言であらわすなら、「シチズンシップ」がぴったりあてはまるとおもったのだ。
いまこそ「デザイン」を再考する
みんなで問題に取り組もうとする『コ・デザイン』は、「今」という時代をくっきりと映しだしている。将来予測が難しい現在、専門家まかせにしたままで世の中は万事うまくいくのだろうか、力をもたない個人はあきらめるしかないのか──そんな疑問をかかえた人が増えているのではないか。コロナ禍のいま、わたしたちの身の回りに「災害ユートピア」のような互恵的な共同体は残念ながら生まれていない。それよりも、見解の相違による論争、行政や専門家への批判、陰謀論など、社会が分断していく光景のほうが目立つ。専門家やエリートへの信頼が以前ほど強力ではなくなったことが背景にあるだろう。それに加えて、わたしたちの社会の階層が硬直化し、普段の生活で多様な人びとと出会う機会を失い、コミュニケーションの回路が断たれてしまったことも原因のひとつではないだろうか。こうした困難な時代に立ち向かうための態度を身につけるために、本書は大いに役立ちそうだ。
ページの端々から筆者の情熱がにじみ出ながらも、書きぶりは抑制的でもある。たとえば、新しい考え方「コ・デザイン」を紹介しながらも、流行り言葉を次々に消費しようとする態度をたしなめる。北欧由来の考え方を輸入するだけでなく、東洋の知恵にも目を向けようといざなう。手法や事例の紹介では大仰に効果を主張することなく、控えめに取り上げる。特定の手法を課題解決の万能ツールとして称揚するのは、「コ・デザイン」の理念とはかみ合わないからだろう。どれも深入りはしていないので、気になったものがあれば深く調べるとよさそうだ。また、多くの学問分野からの引用や世界の「ことわざ」がちりばめられているため、本書の文献リストを起点にしてじっくり学べるようにできている。
「コ・デザイン」の源流のひとつとされる「参加型デザイン」は、1970年代北欧の労働争議を発祥とし、社会民主主義の文化をまとっていたという(p.116)。こうした一部の人の特権的な意思決定にたよるのではなく当事者の権利と平等を指向する活動は、いまや多くの領域でみられる。「コ・デザイン」はいっしょにデザインすることで問題発見・解決にアプローチし、ヨーロッパで台頭しつつある「ミュニシパリズム」は自治的な民主主義を実現しようとする政治的活動だ。ITによる地域課題解決活動の「シビックテック」も、「ともにつくる」を標榜し、公共的な課題解決を図ろうとする。どれも光を当てる角度に違いはあれ、目指す方向がよく似ている。こうした理念はまったく新しく生まれたわけではない。本書が取りあげているように、昔から共同体を運営する知恵として存在していた。
最後に、「コ・デザイン」という言葉は定着するだろうか。本書を読んでいると、「コ・デザイン」という呼び方そのものに固有の価値はないことに気づかされる。もちろん専門用語としての定義や重要度は無視できない。しかし一般には別の用語、たとえば「コ・ワーキング」や「コラボレーション」などと呼ぶこともできるのではないか。外来語をつかわず、日本語で「共同設計」や「共同制作」、たんに「協働」と呼んでもよい。それでも私たちが「コ・デザイン」という用語を選びとるなら、言葉の来歴以上の理由があるはずだ。そこには「デザイン」という言葉のもつ特有の魅力があり、「カタカナの語感の軽さ」(p.79)がある。言いかえれば、「デザイン」と呼ぶとなんだか「かっこいい」のだ。これまで「デザイン」のつく数々の言葉に魅了されてきた私たちは、今こそ「デザイン」という言葉の意味を立ちどまって考えなおすときがきているのではないか。「コ・デザイン」という用語が専門領域を超えて定着するかは未知数だが、本書の熱いエッセンスは一つの用語におさまらずに生きつづけるはずだ。